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昔の湯西川温泉の産業と食料 山 口 久 吉 木杓子つくり 山里の暮らしは、猟をして、ケモノや鳥を捕り、畑作によつて、稗などの雑穀を栽培し山 の幸を採集して、これを加工食料とし。又山に分け入って木杓子つくり、地板挽き、桶つく り、下駄つくり、経木つき、箸つくり等が湯西川での生業であった。 では、江戸時代から明治、大正、昭和と当地の経済を支えた、現金収入源の木杓子作りの あらましを述べてみよう。 当地のように山深い所では、林産資源を利用加工し軽くし人の 背や馬の背によって、運び出し、売る以外には収入の道が無かった。こんな考えから生まれ たのが、木杓子つくりであった。 古老の話によると、江戸時代の中期、彫刻師であった阿部長右衛門という人が、自宅の厩 の上に、細工場を作り小刀を道具に木杓子作りを、始めたと云われています。 その後村人達はこの仕事を教えてもらい、農業用の鎌を折り曲げて、道具とし近くにあっ たブナの木を材料として、杓子作りを始めたと云うことです。 そしてこの仕事は益々盛んになり、山々の沢に杓子小屋を作り、泊り込みでブナの木の良 く割れる木だけを選び、これを伐採し杓子小屋に運び、木杓子の生産に励みました道具類は 会津若松地方から購入し、江戸時代から明治、大正、昭和と大東亜戦争勃発迄が最盛期で、 外に収入源の無かった湯西川地域では、重要な主産業として栄えて来ました。 男の子は、学校が終わると誰でも杓子作りになりました。 湯西川では杓子作りの出来な い人は、 ビッコかカダワかギッチヨ、といわれるくらいで、ギッチヨ(左利き)では左刃 の道具が無かったので出来なかった。 杓子作りが一人前になるのには、最低五年はかかっ た。 道具作りからだから大変な仕事であった。 現在七十歳以上の男なら誰でもが経験者 である、ただ当時、よその村からの入り婿の男には出来なかった。 この地区に、山城平定と云う人が屋号を「カネマタ」と称して杓子問屋となり、湯西川の 杓子を一手に集荷しこれを東京に出荷しました。 杓子で学校を作る 明治三十五年の、学校基本財産貯蓄趣意書の古文書には、教育事業の必要性を強調し学校 を設立するための基本財産として、各自製造した杓子を、前月拾五本づつを貯蓄し五名の預 かり人を公選し、集まった杓子を入札によって公売し、その金を貯蓄して学校を作ると云う 趣意書であり、杓子で学校が出来たのであった。 学校が出来るまではお寺が学校であり、お寺の本堂が勉強の場所でもあった。 杓子の材木と価値 このように村内のブナ材を杓子に生産し、ブナの適材が少なくなると、遠くの山々から会 津地方迄進出して、県境から鱒沢や田代山、又遠く田島町の栗生沢、高野、羽塩等に出稼ぎ して杓子作りをし、若い人の中には、その土地に婿入した人もあり、その地で後継者を育成 し、会津地方迄杓子作りを広めていった。 福島県の田島町史等の文献にも木杓子作りが、 栗山村の湯西川から伝いられたと書かれています。 館岩村の田代山の、泊り小屋での杓子作りは、一週間位で一背負分の荷が纏ると、折取沢 奥の曽根迄出会いにして、ここで家からの食糧と小屋からの杓子を交換し、又泊り小屋に戻 り木杓子作りに励んだが、大正六年の冬山では、表層雪崩に巻き込まれ七名が死亡する、と いう事故があり、郷中を揺るがすような、大騒ぎとなった事件がありました。 この木杓子の値段であるが、昭和三年に四寸並杓子六百本入りで十七円、三寸二分六百本 入りで十六円であった。 この木杓子作りは一時期地域の経済を支えた、重要産業であった として、昭和三十九年十二月八日、県の選択民族文化財、に指定されました。 ★ 木杓子作りの詳細は(杓子木山、杓子小屋、杓子作りの仕事着、仕事の工程と道具 杓子作りの生活と俗信、) 私の備忘録、栗山村教育委員会、をご参照ください。 稗飯が主食だった 当地は標高が高く、河岸段丘から川底が低く水利の便が悪く、又春が遅く冬が早く来るの で、お米の栽培は不可能であった。 僅かに湯畑と高手に、少しばかりの田が有ったがそれ は極く早生の種を播いても収穫は少なかった。 それ故当地には田圃が無かったのである。 食糧は一切畑作に頼ってきた、それ故畑作で「ヒエ」を栽培して主食は稗飯だった。 人家の周りは一面に稗畑で、秋の収穫には稗を刈り取って「ハデサオ」に掛けて乾燥し雪の 降る前に、家の中に背負いこんで穂だけを切り取って、大きな「スゴ」に入れ蔵の中に背負 い込んで重ねて貯蔵した、「ヒエ」は穂の儘だと長期の保存がきく、脱穀する時は、天気の 好い日に蔵から出し、庭一面に「ムシロ」を敷き天日乾燥して「グルリ棒」で脱穀して、各 集落ごとにある水車で精米した。 この水車を「クルマ」と呼び三日一回りで「クルマ番帳 」で回り順に精米した。 当地の精米は蒸さないで白撞きで水を打ちながら精米した、だか ら真っ白な粘気のある稗飯であった。 稗粥などは粘気があってとても美味しかった。 稗、といえば今では小鳥の餌を連想するであろうが、当時としては大事な食糧であった。 その他の雑穀 その他、粟、大豆、ソバ、麦、ジャガ芋トウモロコシ、南瓜等の雑穀、野菜類も栽培した 大豆は麦畑の株間に「ズックシ棒」で一粒づつ手作業で、穴をあけその中へ豆を入れて植え た。播くのでなくて「豆植え」と言った。この「ズックシ棒」は村木に指定の一位の木の枝 でつくった。 大豆は村の重要な作物であり、江戸時代の年貢皆済目録にも大豆にて納めと 記されている。 又酸性土壌の痩地にはソバが作られた、ソバは石ウスで挽き絹篩でふるって、ソバ粉を作 りソバを打って食べた。 又ソバ粉には色々な食べ方もあった。 山の幸 山の幸は、各集落ごとに公平に享受出来る様に、色々の取り決めがあった。 先に述べたように、最寄山の議定で各集落毎に、区域を決めて利用してきた。 そして山の 口明け、の取り決めである。 (註、山の物が自由に採取できる、いわば解禁日の取り決め) 明治三十五年の「山の口明け決定証」によると、 九月二十八日 二十九日、 栃ヒロイ、 (註、食用のための栃の実ヒロイ) 九月 三十日、 クゾ萩とり、 十一月 十四日、 キヤ刈り、 と日程を区長、坪総代(江戸時代は名主、組頭、百姓代)で定めた記録がある。 栃ヒロイ、は各集落毎に定められた日に、集まって決められた最寄山に入って、栃の実を 拾った。 拾った栃の実は乾燥して貯蔵し置き、栃モチ、およびソバ粉を入れて「栃ッカイ 」等を作って食べた。 作る時は乾燥した栃の実を浸して柔らかくして、皮ムキ器で皮をむ き、木灰と熱湯で苦味を取り餡状にしてから、餅と混ぜて栃餅や蕎麦粉と混ぜて栃ッカイ等 に作って食べた。 栃の実は、生のものをつぶして空缶に入れ、麦の穂の茎をストロウ代わ りにして良くシャボン玉にして吹き飛ばして子供達が遊んだ。 又 、栗の実も拾ってムシロで良く乾燥して貯蔵して置き間食によく食べた。 その他山林に自生する山ブドウ、アケビ、サナヅラ、山の自然食には事欠かなかった。山菜 類は春から季節毎に蕗ノトウ、コゴミ、ウド、ウルイ、フキ、ワラビ、ゼンマイ、イラ、タ ラノメ。 等など自給自足に良く利用出来た。 これらの物は元禄、天保、時代の飢饉の時 にも、大変役たった事であろう、当時の古文書の記録にも残されている。 |
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