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栗山村の創設と領主支配関係 山 口 久 吉 創設の始まり 飛鳥時代の斉明、天智、持統天皇の頃遠州浜松や賀州金沢などから、栗山に来て家を構え 暮らしていた。とあり、村としての創設は、この頃から始まり。弘仁、延暦年間移住する人 が多かったと思われ、この頃既に村としての集落が、出来ていたと想像出来る訳です。 延暦二年四月廿日に下野国府の国役人が、今の三重県、島根県、佐賀県、長崎県や奈良県 などから、村の各地に移住させ屋敷、畑、山等を与えて住まわせた記録がのこされています 国役人は斉藤肥後守、小田原越中守、小台勘解由、片岡豊後の名が記されている。 地誌編輯材料取調書 これは明治十八年新政府の、統一した書式により、各村々の名主が調査したもので、当時 の村史というべきものであるが、それによると、中古の時代に失火の為一村悉く焼亡せり、 故に旧記書類の存せざる為、又は溢水の害に逢い、又は錯雑によりその詳らかを記し能わず 些少の旧記及び古老の口碑に存ずるのみ。とあり、村の九ケ村の内四ケ村(湯西川村を含む) が一村悉く焼亡せりとあり。 中古の時代の最も知りたい時代の出来事が判らない、僅かに 碑塔類があるのみである。 古文書は歴史の証人である。!! が、それが無い残念の至りである。 もと栗山郷と称し、大栗の庄と号したともあり、文禄年間に分離し今の九ケ村となるとあ るがなぜ分離したのであろうか、各村は都賀郡に属したが、上栗山のみは河内郡に属した、 これは今市の小百、小休戸と大笹尾を経て道続きであったためだろうか。後に全村が塩谷郡 となった。 領主支配関係、 治乱興亡の戦国時代に、村はどう移り変わったか領主支配関係を振返って見よう。 天慶年間(九四○)より藤原秀郷の領地であった、藤原領であった。 このせいか藤原氏の氏神の信仰が特に厚い。 例、一、高房神社、御祭神は藤原高房(鎮守府将軍四位下、没後正一位高房大明神) 湯西川の赤沢と川戸、及び西川の一ツ石に祀る 一、春日神社、藤原家の氏神、 上栗山と西川、に祀る。 永承年間(一○四六)八田家領 正応年間(一二八八)鹿沼領、 大永年間(一五二六)より、宇都宮領 天文年間(一五三二)壬生領、 天正年間(一五七三)結城領、 天正五年、田島城主、長沼盛秀は上三依に鶴ケ淵城を築き、関東の上杉勢に対抗すべく 五十里村まで進出したが、この時湯西川の番対馬守は、米弐疋弐駄で湯西川郷 を安堵した。 山岳重畳たる中に位置する湯西川郷は、地の利もあって無事平 穏に過ごす事が出来た。 慶長年間(一五九六)板橋領、 元和年間(一六一五)代官所支配 寛永年間(一六二四)年間、鹿沼領 元和六年日光神領となり、(正保元年迄山口忠兵衛支配、享保十一年迄山口図書支配、 寛政元年迄山口新左衛門支配、寛政元年改革あって日光奉行所支配となる) 慶応四年(明治元年)日光県となる、即ち(戊辰元年)、戊辰戦争には日光神領なるが 故に農兵として狩りだされ、当時七十戸の湯西川村から六十二人鉄砲を、担い で日光に馳せ参じて、十人一組として、日光山内(東照宮)を守備するための 配備についたのだった。 栃木県と戸長役場新築 明治四年から六年迄、 宇都宮県 同、六年八月より栃木県となり、栗山郷は栃木県に併合され、 第三大区三小区第十三事務所を日向村八木沢金吾宅に開庁した。 明治九年九月、戸長役場を開設した、時の戸長は大宮出身の黒田与五平であった。 明治十七年斉藤英林、戸長となる。 明治十八年役場を黒部に新築移転した。 斉藤英林戸長は明治十七年十月、戸長役場新築の為の経費を有志の方々より、寄付金 として集めた、赴任早々の戸長も第一番に、一金拾三円と寄付したのが目立っていた。 新築経費の内訳を見ると、板材、釘、金物類、の代金と、屋根葺きの代金、大工の新築 作料、であとは土ナラシ、ドウツキ、棟上げ祭り等の賄い費等で、総計百五拾円足らず で竣工している。 今では考えられない桁違いの数字であった。 然しそれなりに大き なご苦労が有った事と推察出来る。 黒部村の在勤用係は、役場新築の敷地を無代価で貸している。 栗山村誕生 (栗山郷が栗山村となる) 明治二十二年四月町村制施行、黒部村外八ケ村を合併して栗山村と改称し、今迄の各村々 を大字と改めた、(大字、湯西川、などと) また、各村々には江戸時代から、名主の役が あったが、町村制施行後は区長と改められた。 そしていまは部落総代長となっている。 この様に領主支配の変遷は多かったが、主要街道から隔絶された山峡の地域であったため 豪族領主の治乱興亡の圏外であり、貧しいながらも平和境であったと想像できる。 村の歴史を調査する事は、非常に困難である、と云う事は、室町時代以前の記録が無いと 云う事である。 地方文書では北朝の暦応五年(一三四一年)南朝の興国三年の、藤原政令 が最も古く、外は室町時代以降のものしか現在見当らない。 古文書は歴史の証人である。 これが無いのが残念である。 碑塔類で一番古いのが、村文化財指定の馬頭観音、永享元年 (一四二八)で、 次に永正八年(一五一一)の権の律師碩恵の、五輪の頑修供養塔で、こ れ以前のものは現在見当らない。 以上当地の歴史的な概要を述べたが、こうした山村にあ って、果たして村人はどんな生活を続けて来たのであろうか、誠に興味 深いものがある。 見渡す限りの山また山の、谷間の間に点在する集落この山々は、個人所有地を除いては村 山、郷山、であり国有地が、全く無い珍しい所でもあった。 全部が民有地である。但し、 たまに、石塚、藪地、等は青地と云い、又不要な土地は、不要存置といって残した。 とこ ろだけが国の管理になっていた、この膨大な面積の、土地山林は村人達の生活を支えた重要 な村有地であった。 外部との交流もままならぬ山渓の中の集落、それは自給自足以外に方 法が無かったのであったろうだからそれなりに、その利用方法も名主を中心に組頭、百姓代 と地方三役によって合理的に管理され規制され、村人の暮らしと密接な関係にあった事は云 う迄もない。 地方文書によれば、 一、最寄山議定書、 一、囲山連判帳、 一、植木取極議定書、 などの自主規制を定めて、山林の保護活用を計った。 |