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山口久吉の話
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    栗山村と湯西川の名前の由来と地名の由来




                                   
山 口 久 吉

  栗山村

    栗山村は栃木県の北西に位置し、栃木県で面積の一番大きい村、そして一番人口の少な
  い村。村の中央に、一五五七Mの明神岳がそびえ、その山波で村を二分した形で、南に鬼怒
  川、北に湯西川が流れ、その河岸段丘に九つの集落が点在している。村で南側の集落を表栗
  山、北側の集落を裏栗山と呼んでいる。


  
栗山村の名前の由来

   一つは、会津西街道、この街道は江戸から会津に通じる主要街道であった。この街道から
  栗山村を見ると、西の方にある山郷である、だから西山郷といって、山には木ばかり生てい
  てた、西に木を付けて栗、即ち栗山郷となったと言う。
   もう一つの説は、日陰村のお寺の境内に自然石の碑が建っている、その碑に大栗山往生院
  自在寺という陰刻がある、この自在寺は飛鳥時代の持統六年四月十八日建立で、この寺の山
  号を取って栗山郷となったと言われている。


  
湯西川の名前の由来

   湯西川の地名は、会津西街道から眺めると、西から東に川が流れている。西川であるここ
  の集落は西川郷といわれ、上西川と下西川の二つの集落で、長さ数里に亘る大きな集落であ
  ったが。 文禄年間に分離した時、上西川は湯平にお湯が湧き出ている事から、湯を付けて
  湯西川と言うようになり、下西川もそれではと下を取って、西川と言うようになり、現在の
  湯西川と西川の地名となったという事である。


  
雑談

   私は昭和十六年に、臨時召集で宇都宮の東部第三十六部隊に入隊した。その時、君の出身
  地は何処だ? と聞かれ、「栗山です。」と答えると、「ナーンダァー栗山ツポウーか。」と
  言われた。栗山にポウが付く、人を馬鹿にしてと思ったが、ポウの意味が分からなかった。
   それが分かったのは、ずっと後の事だった。湯西川の昔話を調査するようになった時奇し
  くも茂木の学校の高橋勝利先生の、下野昔話集で栗山話だった。それは!人を馬鹿にしたよ
  うな話ばかりだった。だが栃木県では、昔話しが初めて本として世に出た、第一号だったの
  である。此本を読んだ人は、栗山の人を見る考え方が変わったのだと、痛切に感じたのだっ
  た。それは栗山は開けない野蛮な村というイメージが多く、江戸見物に行った時の話、見物
  から帰っての話、他所へ行っての話等など馬鹿ツ話が十九話も書かれている、ではその中か
  ら一つを紹介しょう。

                ☆節のある馬の話

    栗山の人が新築祝いに招かれて行った。 他の人が「この柱は節が無くて立派な柱だ
   この天井板も節穴が無くて立派な普請だ。」と言ってほめているのを聞いて、栗山の人
   は、なるほど節の無いのが立派なのかと覚えこんだ。その後で馬を買った人の所へ行っ
   た時に、この馬をつくづく見てから、馬の後に尻穴があるのを見付けて、「これは節穴
   があって、どうもまずい馬だ。」と言った。!!


   私はむらの広報紙に昔話を連載した時、栗山話を知ってもらおうと、この昔話をだしたら
  こんな話を子供達には見せられない、という理由で断られた。それを機会に昔話の連載を
  止めたのだった。
   こんな訳で、栗山ポウの意味や秘境の村の意味も、痛切に感じたのだった。


  先住民と土地名の由来

   湯西川では、人が亡くなった時の葬式に、土葬が昔から行なわれていた。自分所有の畑に
  埋葬し印に芍薬の花を墓印として植えていた。 今では荒らしてしまった畑に、芍薬の花が
  綺麗に咲いていると、知らぬお客は、花欲しさに芍薬を掘っている、オイコラァーお墓を掘
  るなァ と怒鳴ることもあった。

   そんな畑から縄文時代の土器石器が出土する。いや、表土に散乱している。
   栗山に、人間が初めて足跡を印したのは、縄文時代早期といはれる、約八千年前のことで
  ある、村の各地から、この頃の人々の使用した、土器石器の破片が出土している。
   以後、縄文時代には狩猟や採集で生活した多くの人々が、移り住んだのでその遺跡が村内
  で十八ケ所も発見されている。 殊に湯畑地区は、温泉の湧出と共にその代表的な所である
  自然に湧きだす温泉を、縄文時代どのように暮らしに利用していたか、感慨深いものがある
  仲内地区の遺跡は、湯西川ダムの建設に伴い、発掘調査がされていたところでもある。
 
  湯西川の遺跡
     高手遺跡    湯西川高手、 縄文土器(茅山上層式、黒浜式)
     花和遺跡    湯西川花和、 縄文土器(子母口式、黒浜式)
     梨ノ木平遺跡  湯西川沢口、 縄文土器(田戸下層式)
     栃窪平遺跡   湯西川石上、 縄文土器(黒浜式)
     湯平遺跡    湯西川湯平、 縄文土器(阿玉台式、堀ノ内式)
     床ヤ平遺跡   湯西川移木沢 縄文土器(茅山上層式、黒浜式、
                         阿玉台式、加曽利E1式)
     釜八幡遺跡   湯西川川戸  縄文土器(加曽利B1式、安行1式)
     大貫目遺跡   湯西川川戸  縄文土器(加曽利B1式、安行1式)
     仲内遺跡    湯西川仲内  縄文土器(加曽利1式、花積下層式
                         阿玉台式、加曽利E式)
     石仏平遺跡   湯西川石仏平 縄文土器(加曽利式)石器(石鏃、石斧)

  クラのつく地名
   この時代の暮らしは、狩猟、採集、の時代であった。狩猟最大の獲物はクラシシ羚羊)で
  あった。 クランボとも呼び、肉は食用に皮は衣類(シカカワ足袋、シッツキ、等)村人達
  はクランボの、棲息地をクラを付けて呼んでいた。

     タカクラ、ヌウクラ、ヒナタクラ、オロクラ、マナイタクラ、カラクラ、等

   これらの山は、今でも羚羊が生息している。
  しかし、現在は天然記念物となり、捕獲できないが造林木等の被害が出ている。

  ハタのつく地名
   又、人口の増加により、村から離れた山の僅かばかりの平地をも、大事に焼畑農耕を営み
  食料の確保に努力していた。今に残る畑のハタのつく地名。

     ハタミネ、ナカハタ、シモハタ、ハタノサワ、カミハタ、
       ジョウセンハタ、オオハタ、等

   今でもこれらの場所は、土地の肥えた農作物に適した畑の跡として見ることが出来ます。


  
これらは昔の暮らしの文化が、地名として今に残っているしるしです。






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